人の幸福は本当に明確で、戦いに挑みリスクから来る興奮を味わい食と生殖の喜びにと本能的なものを満たし続けることです。無理にそれを否定し自分を高尚な生き物だと思おうとすることがそもそもの勘違いの始まりなのでしょうね。
キリの無いものに見えて満足してもまた明日欲しくなるもの。どうあがいても逆らうことはできませんし、それに逆らったところで袋小路に行き詰まるだけです。
もっとシンプルに考えれば良いのに、それらの本能的喜びを得るために手段があり、それが出来ないのは純粋な実力不足であり、それを受け入れず無理やり自信を肯定しようとして多くの人間は選択を誤るのだろうなと思います。
本当はそんなところに向かっても何も無いのに「その人の人生だから」と無責任に放置され不幸になる人たちをたくさん見てきました。周りが手を差し伸べてあげないと、と感じる人はやっぱり手を差し伸べ助けてあげないといけないなと最近強く思います。
例え疎まれてでもやるべきことがやっぱりあるのです。
自分の力で人生を成立させられる人とそうでない人は確かに居て、助けを必要としている人というのは見ていても明らかです。時間が無限にあればいつかは正解にたどり着くのでしょうが、人間の体は徐々に年老いていくように設計されており、タイムリミットは常に追いかけてきます。
10年早ければ救えた人も、今はもう手を施すことが出来ない。それは私としてもやっぱり受け入れないといけない現実であり、自分自身も今しかできないことをやりきることに常に全力で居ようと感じます。
だからせめて、もしその人がまだ間に合うと判断され且つ救いを必要としているなら、私はこれから迷いなく手を差し伸べていこうと思います。
本能的な喜びは常にタイムリミットに追われている、子供と過ごす時間もその一つで、人は異性とつがい子を産み育てることに本能的な喜びを感じます。私も実際に子供を持つまでこの感覚は理解できませんでしたけどね。
かなりの遊び人の私ですら「遊んでいる時間があったら早く帰って子供と過ごしたい」と思ってしまうくらい子供と過ごす時間は魅力的です。
特に今は可愛い盛りの年齢なので、この時間を仕事に奪われたくないなという思いもあり独立することに決めたというのも今の人生を選んだ理由の一つです。
そして本能に流されると良いように使われるというのも資本主義の非情な一面であり、ここを俯瞰的に理解して資本家としての人生に遷移することもまた非常に重要であり、幸福と自由の両立は本能と知性の双方を以て実現できます。
そして行動していけば望みは叶い、例え力が及ばなくても自然と周りに助けられ願いは形になります。
子供と過ごす時間もあと10年もすれば過ぎ去り、段々と友達恋人との時間をかつての自分のように子供も優先していくのだと思います。
今一緒に過ごせる時間は奇跡であり、この今の瞬間を噛みしめながら生の喜びを満喫していきたいものですね。